2016.5.5 artist statement

2016.5.5 artist statement

『吾ガ家〜過去未来〜』

震災後の想い「自分がやるべきことは建物を建てることではなく、建築の過去や未来において失われた可能性に何かしらの形で接続すること」

図らずも新国立競技場は驚くほどに、多くの日本人に建築とは何かを問うきっかけとなった。ただ、その中身は余りに複雑化した日本建築業界の構図により、しっかりと紐解かれる事は無く「ザハの死」と共に過去のものとなった。いまや「緑と調和」という最も現代の日本人らしい建物が完成するまで深い議論は必要とされていない。いや完成してしまえばただのハコとなってしまい、議論もへったくれも無い。土地の意味もなにも忘れ、建った時点で全て終わりだ。

建った時点で終わり、それは公共建築だけではなく一般住宅の場合でも同じだ。むしろ建築確認申請の時点で、すでに「土地と建物の関係性」は過去のものとなってしまう。その建物が数十年後に取り壊されるまで全く土地と建築の価値は更新されない。

「建物が建った瞬間に建築は死ぬ」そう思う。

建築が未来に続いて生きるには「常に建築を進めて更新し続けなければならない」

それはどういった意味か?

磯崎新の「粗大ゴミ発言」を思い起こしつつ、私は先週ある一冊の本を古本屋で見つけた。「日本の建築土木ドローイングの世界」という本だが、この中にヒントがあった。それは毛綱毅曠という建築家のよる「国際フォーラムのコンペ案」である。それは当時の磯崎が考えていた以上に国家の進む方向とはそぐわない提案であった。しかし、あたりまえに国際フォーラムがそこに存在する今。この土地の可能性はもっと複雑で、現在の国際フォーラム(整頓されたガラスの箱)であるべきなのか、毛綱案は問いかけてくる。そして以前この場所は都庁(新宿移転前)があった土地でもある。磯崎はそのことの意義を訴えている。

ザハ・ハディドの新国立競技場案は「緑と調和のスタジアム」にとって、いつまでも亡霊として存在し続けるべきだ。

「建築が死んでしまわないためにも」

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